新生活248週目 - 「五千人に食べ物を与える」

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The Meeting of Abraham and Melchizedek, from The Story of Abraham
「天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた」はイエスが奇跡を起こしたということではなく、神に願って実現したというシーンである。3つの朗読箇所はどれも食事のシーンが書かれている。

新生活246週目 - 「聖霊を与える約束」

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A prayer walk on Pentecost in Tavna Monastery, Bjeljina
今日の3つの朗読箇所は使徒行伝、ロマ書、ヨハネ伝が選ばれている。ロマ書はパウロの解釈で、使徒行伝は記録報告の位置づけ、ヨハネ伝は当時の教会が採択した解釈と考えることができる。使徒行伝、ヨハネ伝は2世紀になってから文書化されているのに対して、ロマ書は50年代。ロマ書の頃、既にギリシャにキリスト教会は存在していて、ローマに影響を及ぼし始めている。事実がどうだったのかも知りたいが、ペンテコステが意味することを再考したい。

新生活245週目 - 「弟子たちに現れる〜天に上げられる」

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Stained glass window showing the Ascension of Jesus, at Church of the Good Shepherd (Rosemont, Pennsylvania)
ある日復活のイエスが昇天したという事実はなかったのではないかと思う。復活のイエスは肉体を伴っていて弟子たちと再会した体験は恐らく真実だろう。しかし再会の体験は実際に会ったことのある人にしか機能しない。ペンテコステで霊的な働きにフェーズが変わる。じゃあ、肉体を伴った復活のイエスはどうなったのか?という問いに答える必要があるので昇天の記事が書かれたと考えることには一定の合理性があると思う。物理的な存在や事実だけに固執していても詮無いことだ。