1年ぶりに砧教会の礼拝に参加した 一年間の冷却期間を経て、礼拝に出席したら惨状は目を覆うばかりだった。権威主義は破滅の入口である。善人も慢心すれば悪魔と変わらない。 タグ キリスト教 1年ぶりに砧教会の礼拝に参加した の続きを見る
新生活246週目 - 「聖霊を与える約束」 画像 今日の3つの朗読箇所は使徒行伝、ロマ書、ヨハネ伝が選ばれている。ロマ書はパウロの解釈で、使徒行伝は記録報告の位置づけ、ヨハネ伝は当時の教会が採択した解釈と考えることができる。使徒行伝、ヨハネ伝は2世紀になってから文書化されているのに対して、ロマ書は50年代。ロマ書の頃、既にギリシャにキリスト教会は存在していて、ローマに影響を及ぼし始めている。事実がどうだったのかも知りたいが、ペンテコステが意味することを再考したい。 タグ キリスト教 新生活246週目 - 「聖霊を与える約束」 の続きを見る
新生活245週目 - 「弟子たちに現れる〜天に上げられる」 画像 ある日復活のイエスが昇天したという事実はなかったのではないかと思う。復活のイエスは肉体を伴っていて弟子たちと再会した体験は恐らく真実だろう。しかし再会の体験は実際に会ったことのある人にしか機能しない。ペンテコステで霊的な働きにフェーズが変わる。じゃあ、肉体を伴った復活のイエスはどうなったのか?という問いに答える必要があるので昇天の記事が書かれたと考えることには一定の合理性があると思う。物理的な存在や事実だけに固執していても詮無いことだ。 タグ キリスト教 新生活245週目 - 「弟子たちに現れる〜天に上げられる」 の続きを見る
新生活244週目 - 「イエスの祈り」 画像 私はこの祈りが生前のイエスによって実際になされたとは思えない。しかしながら、生前のイエスが行ったことなのか、そうではないのかを気にする必要はないという考え方もある。意識的ではなかったが、私の場合それが受洗の原動力になったのだろうと思う。 タグ キリスト教 新生活244週目 - 「イエスの祈り」 の続きを見る
新生活243週目 - 「新しい掟」 画像 栄光という言葉の原語はヨハネ伝で23回出てくるのに対して、マルコ伝では「中風の人をいやす」でしかでてこない。マタイ伝4回、ルカ伝9回と時系列とともに頻出化している言葉だ。言い換えれば、解釈補完が増加していった歴史がでていると考えることもできる。 タグ キリスト教 新生活243週目 - 「新しい掟」 の続きを見る
悪霊に取りつかれたガダラの人をいやす 今日の説教でマタイ伝8章の『悪霊に取りつかれたガダラの人をいやす』が取り上げられていた。興味深かったので感想をメモしておく。 タグ キリスト教 ライフスタイル 悪霊に取りつかれたガダラの人をいやす の続きを見る
新生活242週目 - 「ユダヤ人、イエスを拒絶する」 画像 「イエスを拒絶する」保守派は自分が考える枠に外れるインフルエンサーを徹底的に弾圧する。枠にはまっていても権力への脅威は許さない。教皇というソフトパワーはイエスと同じくパラダイム・シフトの原点となる可能性を秘めている。 タグ キリスト教 新生活242週目 - 「ユダヤ人、イエスを拒絶する」 の続きを見る
新生活241週目 - 「イエス、七人の弟子に現れる〜イエスとペトロ」 画像 イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。…」は史実だろうか。 タグ キリスト教 新生活241週目 - 「イエス、七人の弟子に現れる〜イエスとペトロ」 の続きを見る
新生活240週目 - 「イエス、弟子たちに現れる」 画像 トマスは何者なのだろうか。血筋に意味をおいたら教義は破綻する。一方で、もし一緒に育ったなら、自分の目で見たイエスの行動に基づいて考える以外の道はないだろう。 タグ キリスト教 新生活240週目 - 「イエス、弟子たちに現れる」 の続きを見る