新生活36週目 - 三位一体の主日 画像 ペンテコステは印象深いが、私は三位一体の主日を意識したことはない。「三位一体(wikipedia)」は公会議で定式化されたもので人間が考え出した概念だ。言わば、正統をめぐる論争の結果として得られた合意である。しかし、理解を文書化しただけでは力が無いのだ。しかし、ペンテコステを引用するまでもなく時として理解を超えて聖霊は働く。聖霊が働けば人の行動は変わる。 タグ キリスト教 新生活36週目 - 三位一体の主日 の続きを見る
新生活35週目 - ペンテコステ(五旬節) 画像 自分の母語で良い知らせ(福音)を聞くのは奇跡だ。しかし心が開いていなければ受け入れることはできない。 タグ キリスト教 新生活35週目 - ペンテコステ(五旬節) の続きを見る
新生活34週目 - 「天に上げられる」 画像 イエスは復活から40日目に昇天したとされているのだが、なぜずっとこの世に残らなかったのか、その日数にどのような意味があるのかは謎である。イエスの復活後40日間は物理的な身体を有していたとされているので、生きた人間だったようにも見えるし、扉が閉じられている部屋にいきなり現れたりするのでもはや生きた人間にはありえない特徴を有していたのかも知れない。超越的存在を待望し、従いたいという依存心を刺激する。ちょっと怖い気がするが、その時期のイエスをこの目で見たいと思う。実際どうだったのだろうか。生きているイエスとは何かを考えてみた。 タグ キリスト教 新生活34週目 - 「天に上げられる」 の続きを見る
新生活33週目 - 「続:イエスはまことのぶどうの木」 画像 今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「復活節第6主日 (2021/5/ 9 ヨハネ15章9-17節)」。先週の箇所の直後である。福音のヒントは「15章以下はおそらく後から拡大された部分でしょう」としている。私に聖書学の知識はないが、改めて読むとこんなシーンは無かったのではないかと思われてならない。とは言え「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」という教えは素直に受け入れてよいだろう。 タグ キリスト教 新生活33週目 - 「続:イエスはまことのぶどうの木」 の続きを見る
新生活32週目 - 「イエスはまことのぶどうの木」 画像 ヨハネによる福音書14章~17章は告別説教と呼ばれる箇所で福音のヒントでは最後の晩餐の時の説教と位置づけている。最近、私はヨハネ伝に違和感を感じることが多い。 タグ キリスト教 新生活32週目 - 「イエスはまことのぶどうの木」 の続きを見る
新生活31週目 - 「イエスは良い羊飼い」 画像 今の私は、ヨハネによる福音書に、イエスの人間臭をあまり感じさせない後から再整理した英雄伝的な傾向を感じている。生前から全部わかっていた感が強く出ていて、この箇所もどこか人間性が希薄な感じがする。生きているイエスは人間で一人の人間として使命に忠実に自分の命をかけて生きたのだと思っている。 タグ キリスト教 新生活31週目 - 「イエスは良い羊飼い」 の続きを見る
新生活30週目 - 「エマオで現れる」~「弟子たちに現れる」 画像 今日の箇所のメインは先週のトマスの話の別バージョン。福音のヒント(3)にあるように「彼らの心の目を開いて、言われた」というところが印象に残る。情報は提供されている(見ることはできるのだ)が、「心の目」が開かなければ見えるようにはならないのである。 タグ キリスト教 新生活30週目 - 「エマオで現れる」~「弟子たちに現れる」 の続きを見る
新生活29週目 - 「イエス、弟子たちに現れる」 画像 今日の箇所は「復活節第2主日 (2021/4/11 ヨハネ20章19-31節)」。「イエス、弟子たちに現れる」、「イエスとトマス」、「本書の目的」という見出しの箇所だ。改めてトマスのことを考えて好感をもった。疑い深いという批判的な接頭辞とともに書かれることが多いが、事実に沿って考える姿勢は決して悪くないと思った。 タグ キリスト教 新生活29週目 - 「イエス、弟子たちに現れる」 の続きを見る
新生活28週目 - 「復活する」 画像 今日はイースター、教会暦的には主の復活を記念する日である。イエスが物理的に復活したとしても特別な事象であれば、それ自身は現実に影響を与えることはない。だから、人が復活を信じると言っても信じないといっても現実は変わらない。しかし、復活した生きているイエスに従うと行動は変わる。復活のイエスは今現在も生きて働き続けているという良いニュース/福音をこの記念日に一人でも多くの人に伝えたい。 タグ キリスト教 新生活28週目 - 「復活する」 の続きを見る