今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第11主日(2026/6/14 マタイ9章36節~10章8節) 」。3年前の記事がある。弟子の派遣の記事にはマルコ伝6:7(使徒の任命は3:13)、ルカ伝9:1に並行箇所がある(委細は3年前の記事を参照されたし)。
福音朗読 マタイ9・36-10・8
そのとき、イエスは、9・36群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。37そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。38だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
10・1イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。2十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、3フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、4熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。
5イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。6むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。7行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。8病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」
3年前の記事で、リスクを取ることについて書いている。自分の意思で取ることもあるが、追い込まれてリスクを取ることもある。「もう失うものは無いと思うほどの人の目に灯りが灯ることでとんでもなく人が変る事例はあっただろう」は両方の面がある。
「ふと気がつくと地上の権威や権力に隷従していることがある」の言及は今の私にとっても興味深い。国が教育制度で価値観を一色に染めようとするために、教師の免許制度を硬直化すると一世代で「ふと気がつくと地上の権威や権力に隷従していることがある」を招く。現在の日本の若者の過半は「このまま緩やかに日本経済が衰退しても、穏やかに暮らせるほうが良い」を選ぶという。多くはリスクを取らないことを選んでいるということだ。しかし、リスク回避を行う人ばかりになれば、穏やかに暮らせる日など来ない。逆に権力者に駒扱いされ命さえ奪われる未来が待っている。
イエスは安息日に人を癒すなど、サンヘドリン解釈では法を犯している。権威には挑戦しているが悪いことをしているようには見えない。そして、ただただ従っているのが良いわけではないというメッセージを発し、愛を忘れずに自由に生きよと説いている。権力側から見れば、思い通りにならない人が増えることになり、具合が悪い。社会的に見ても、自由に生きる人が勝手気ままに振る舞えば様々な弊害が出る。小さな逸脱は問題ないだろうという考えが段々膨らんでくれば社会システムの安全性が損なわれる危険がある。しかし、社会システムは人を生かすためにあり、本来持てる力を削いでしまうほど統制が強くなればその社会自身の衰退を招く。ちょっと頑張ればよりよい社会が手に入るのではないかと考えずに手をつけない方を選ぶようになれば社会の停滞は必至である。
「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」は、活力が失われた様を表しているのだろう。
弟子の派遣で「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」というのは、希望を失ってしまった活力を失っている人々に『天の国は近づいた』という言葉とともに一歩を踏み出すように促すということだろう。一人ひとりの意識が変われば社会も変わっていく。天の国にふさわしいものでいるために一歩を踏み出せば、その人の人生も変わっていく。
目指す国は強い国ではない。一人ひとりの人がその能力を発揮でき、全体としての活力が増え、「弱り果て、打ちひしがれている」人が減っていく国だ。人を支配して駒のように使うような形とは対極に位置する形態である。
つい治癒奇跡や不思議な力に関心がよってしまうが、メッセージの中核は愛だ。愛は「弱り果て、打ちひしがれている」人の目に灯りが灯りわずかでも今日より良い未来に向けて持てる力が発揮されている状態を導く。
守りに走っても未来は拓けない。勝ち馬に乗ろうとすれば差別を激化させ格差も拡大する社会に向かう。愛が身内に向かえば社会は衰退に向かう。教育の基本は「あなたは世の中を良くするために生まれてきた」というメッセージを伝えることだろう。それは伝道の基本でもあり、弟子の派遣の意味でもあると考える。
※画像はゴッホの「収穫」。福音のヒント(1)には「イエスは「飼い主のいない羊のような群衆」を「収穫」と呼びます」と書かれているが、神が蒔いた種が育った結果が人でそれを神の倉に納めよという意味なのではないか。健全に育って、使命を全うして神のもとに帰るのが良いのだろう。収穫は拡大再生産のプロセスを想起させる。