新生活311週目 - 「兄弟の忠告」 画像 第二朗読の「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」と福音朗読の「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」に関連性を感じている。その二人または三人が隣人の始まりと言って良いだろう タグ キリスト教 新生活311週目 - 「兄弟の忠告」 の続きを見る
新生活310週目 - 「イエス、死と復活を予告する」 画像 イエス伝の一部として受難予告を読むのも勉強になるが、自分の生き方の問題として考えることもできる タグ キリスト教 新生活310週目 - 「イエス、死と復活を予告する」 の続きを見る
新生活309週目 - 「ペトロ、信仰を言い表す」 画像 かつて私は「この岩の上にわたしの教会を建てる」という言葉を単純に信じた。その言葉はあったかも知れないし、なかったかも知れない。ローマ・カトリックはそれを原則として成り立っていて、しかもその正統性を独占しているように見える。カトリック教会はかなり腐敗したり、危うくなった時期もある。権威の独占に溺れたと考えて良いだろう。共観福音書が複数あるように解釈は複数あってよいのだろう。伝統に奢らず真実を追求し続けたら良いと思う タグ キリスト教 新生活309週目 - 「ペトロ、信仰を言い表す」 の続きを見る
新生活308週目 - 「カナンの女の信仰」 画像 マタイ伝では「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」と弟子たちがうるさがっているが、福音のヒント(2)でも「実は22-25節のやりとりはマルコ福音書の平行箇所にありません」とあるようにマルコ伝では同様の記述はない。弟子たちのイエスへの気遣いはある意味で醜い タグ キリスト教 新生活308週目 - 「カナンの女の信仰」 の続きを見る
新生活307週目 - 「湖の上を歩く」 画像 ペトロが「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」は並行個所にはないが、この話は本当にあったかも知れないと思っている。重要視しているのはペトロが希望したという点である。善いことを実現するにも一定の能力が必要となる。ペトロはそういう能力を獲得したいと願っただろう。水の上に一歩を進め、助けを得たとはいえ沈まずにすんだのは素晴らしいことだ タグ キリスト教 新生活307週目 - 「湖の上を歩く」 の続きを見る
新生活306週目 - 「五千人に食べ物を与える」 画像 物理的にはパン五つと魚二匹で多人数を満腹させることはできない。奇跡的に増量したか、どこかから補われたかのどちらかが起きたのだろう。 タグ キリスト教 新生活306週目 - 「五千人に食べ物を与える」 の続きを見る
新生活305週目 - 「「天の国」のたとえ〜天の国のことを学んだ学者」 画像 Wikipediaの解説を読んでいると、グノーシス主義に関する言及が出てくる。たしかに、天啓に頼って悟りを開くというという匂いがするが、荒野の誘惑のシーンにも同じ匂いがするから、異端的な記述とするほどではないだろう。悟りを強く意識しすぎると危ういから、気をつけなければいけないが、常人には気づくことができない宝を探すという行為が駄目なわけではない。「罪の自覚と不断の悔い改め」とセットで考えなければいけない タグ キリスト教 新生活305週目 - 「「天の国」のたとえ〜天の国のことを学んだ学者」 の続きを見る
新生活304週目 - 「「毒麦」のたとえ」 画像 マタイ伝は、とっつきの良いテキストでもあるし、選民思想の罠を気づかせてくれる反面教師的なテキストでもある タグ キリスト教 新生活304週目 - 「「毒麦」のたとえ」 の続きを見る
新生活303週目 - 「「種を蒔く人」のたとえ」 画像 福音のヒントにある「人がたとえ話を用いて話すのは、ふつうは話を理解しやすくするため」はそのとおりだと思う。「たとえ」は、ある事実や法則に対して解釈を加えた表現を意味する。そうすると、その対象となる事実や法則は「謎」に変わる。たとえは謎解きの入り口に過ぎず、たとえで分かった気持ちになってしまえば謎に迫ることはできない。悟りは謎にたどり着いた度合いを示すと考えることができる タグ キリスト教 新生活303週目 - 「「種を蒔く人」のたとえ」 の続きを見る
新生活302週目 - 「わたしのもとに来なさい」 画像 マタイ伝の著者はゼカリヤ書の「あなたの王」がイエスを指していると解釈しているのだろうが、私は無理筋だと思う。個人的には、イエスの出現は別に旧約聖書で裏付けられる必要はないと考えている。正統性に固執すればむしろ事実が曲げられてしまう タグ キリスト教 新生活302週目 - 「わたしのもとに来なさい」 の続きを見る