田川建三訳著 新約聖書 訳と註 第二巻下 使徒行伝

新約聖書 訳と註 第二巻下 使徒行伝 読了。上巻から3週間弱とハイペースだった。途中で1日2章のペースで読んでいたので、28章だから2週間で読み切れる。

この巻では、それまでよりさらに大胆になっている。まず特に印象的なのは第2章の冒頭にあるペンテコステの記事の解釈で、P104で「キリスト教会が本当にこの日にはじまったかどうかは別問題である」と書いている。「さあこの日から新しい宗教を旗揚げしましょう」などということはないし、「ペンテコステは奇跡的聖者伝説だから、どのみち歴史的根拠のどうのいうような種類のものではない」と聖霊降臨の記事自身を否定している。大胆だが、解釈の筋は通る。

しかし、生前のイエスの時代から既にユダヤ教の分派として一定のプレゼンスがあったのだが、五旬節を機に「今日から分派としての立場を明確にすることとしよう」と合議した可能性は否定できない。イエスが磔になったのに、その主張でまとめるのは相当ストレスの高い行いだから、集団ヒステリー状態になったという可能性も否定できない。誇張はあるだろうが、当時の信徒の認識として、火のような舌を見、異言を語った経験があったのではないかと考えることもできる。私自身はそれほど激しい経験をしたことはないが、私の友人でペンテコステ派の集会に出て特別な体験を経て興奮状態になった人は実在する(現在は牧師)。

現代の新興宗教でも、強烈な心的体験で人生が変わる事例はままある。多分、人間はそういう性質を内在しているのだ。

田川氏に限らず、歴史的な事実は、歴史的事実として解明した方が良いと考える人はいる。田川氏は神はいないと説教してICUを追放されているが、どう読んでも信仰者としか読めない。事実を誤魔化さずに考えるという姿勢が、教会が作り上げた神を否定しているということだろう。追放した人たちも、終わった問題としただろうが、追放した事実は消えることはない。田川のいう存在しない神は、その事実を把握して裁くだろう。もちろん、どう裁かれるか結果はわからない。

この巻でほかに特に気になったのは、「我ら個所」に対する記述である。各所にあるが、巻末の解説の部分の記述が興味深い。使徒行伝の執筆者は全ての場面に同席することはかなわないが、ルカあるいは使徒行伝執筆者は「我ら個所」の場面には執筆者自身がその場にいたと田川は考えていて十分に説得力がある。福音書は全て伝承であるのに対し、使徒行伝の「我ら個所」のリアリティは高い。また、使徒行伝にはパウロの死については書かれていないのも興味深い。マルコ伝のように28章の後半を加えることもできただろうが、使徒行伝は打ち切りのままにされている。実在した著者の記憶が残っていて、足せなかったのではないかと考えている。

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