今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「待降節第1主日 (2025/11/30 マタイ24章37-44節)」。A年の初日。マルコ伝13章、ルカ伝12章に並行箇所がある。3年前の記事がある。
第一朗読 第一朗読 イザヤ2・1-5
1アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。
2終わりの日に
主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
どの峰よりも高くそびえる。
国々はこぞって大河のようにそこに向かい
3多くの民が来て言う。
「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。
主はわたしたちに道を示される。
わたしたちはその道を歩もう」と。
主の教えはシオンから
御言葉はエルサレムから出る。
4主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。
5ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。
第二朗読 ローマ13・11-14a
11〔皆さん、〕あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。12夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。13日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、14主イエス・キリストを身にまといなさい。
福音朗読 マタイ24・37-44
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕37「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。38洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。39そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。40そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。41二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。42だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。43このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。44だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
Biblehubではマタイ伝のこの箇所に創世記6章の洪水の箇所との関連が示されている。「ノアの時と同じ」というような記述は、マルコ伝、ルカ伝の並行記事にはない。ルカ伝12:35(箇所の冒頭)からはマタイ伝の24:42-44、マルコ伝13:33-37と関連付けている。イエスは、マタイ伝のように語っていないかもしれず、編集者が旧約の記事を補っている可能性も否定できないだろう。ちなみに第二朗読のロマ書13:11はマタイ伝24:42、マルコ伝13:33、ルカ伝21:36(共同訳聖書では同じ「目を覚ましていなさい」という見出しがついているがBSBではルカ伝12:35が他の並行箇所と同じReadiness at Any Hour(共同訳では「目を覚ましている僕」)で21:36はBe Watchful for the Dayという見出し)との関連が記されている。第一朗読のイザヤ書は4節が有名だが、これは2節の終わりの日の説明ということになるので、40節の「そのとき」を意味すると考えて良い。
アドベント初週が再臨から始まるのは、ルカの年C年でも同じで、昨年の福音朗読は上で触れたルカ21・25-28、34-36だった。12:35ではない。また、第一朗読はエレミヤ33・14-16で「その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう。」と結ばれている。
イザヤ書2:4は冒頭の「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる」を重視すれば正義の勝利となる。だからその日まで国が滅びることの無いよう武力闘争を続けていなければならないという解釈もある。シオニストはその立場に立つだろうし、どの国にもナショナリストはいなくなることはない。一方で、「もはや戦うことを学ばない」は、力による争いは終わるということだ。神の超越的な力、あるいは破壊力が完全に人間の武力を凌駕するのでもう争いに意味がなくなるという神への奴隷的な服従を意味すると解釈できる。一方で、愛が人間を内側から変えて共に協力し合う世界が実現するという解釈もある。
現実には、戦いは避けられない。女性首相の誕生も戦いの結果だし、既得権益側から見れば敗北にほかならない。戸籍制度で家長制を守ろうとしたり、国籍で差別を許容する考え方もある。現在の風向きとしては、力に頼るのが現実的(リアリズム)という考え方が主流となってきているのだろう。しかし、その現実は理不尽な敗者を生み出すのも現実である。
福音のヒント(3)で「「目を覚ましている」というのはわたしたちにとってどういうことでしょうか」という問いを出し、「実は、きょうの箇所には「目を覚ましている」とはどういうことか、ほとんど何も語られていないのです!」と書いてあるが、その解釈は、第二朗読の「主イエス・キリストを身にまといなさい」で良いだろう。言い換えれば、イエスは理不尽な敗者と共にあったということでもあり、力に頼るのがリアリズムという扇動に流されてはいけないということだと私は思う。逆風が吹こうとも真実に忠実であることが必要だし、自分が真実に忠実だと過信して不必要に攻撃的になってはいけないということでもある。再臨、あるいはこの世の終わりはあるのではないか、死語に本質的な審判が待っているのではないかと恐れている人は少なくないだろう。しかし、「裁きの時を警戒してビクビクしながら生活する」ではなく、自ら「主イエス・キリストを身にまとう」ことこそが本質なのだと思う。
大きな話としては、大量破壊兵器から始めて理不尽に命を奪われるものを減らし、地球環境問題と真摯に取り組み、人権の確立に真摯に取り組むことが求められていると取れるし、身近な話としては、真実を求め、安易な妥協は避けつつも柔和であることを目指すのが良いだろう。この世をイザヤ書2:4に近づけるのだ。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない
生誕を記念として、思いを新たに新しい一年をはじめたい。
※写真は今年のクリスマスマーケット。今年のタリンは雪がない(昨年も少なかった)。クリスマスマーケットの場所から直接は見えないが1分歩くとロシア大使館がある。つねに警官が見張っていて、大使館の周りにある柵にはプーチンを糾弾するポスターなどで溢れている。力に頼って侵略するものに無抵抗であれば蹂躙されてしまうだけだが、蹂躙者のリアリズムには持続性はない。明けない夜はないと信じている。長期的には、勝者が蹂躙者に化けてしまうことがないような世界を作り上げていく必要がある。残念ながら民主主義だけでは足りない。