新生活319週目 - 「山上の説教を始める」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「諸聖人 (2026/11/1 マタイ5章1-12a節)」。6年前の記事がある。新生活6週目だから、まだフォーマットも固まっておらず、聖書個所のコピーもない。書き出しに『自由学園では文語訳聖書を使っていたので、「幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者」というリズムが心に残っている。「心の貧しい人々は、幸いである」より印象が良い。表現はインパクトを変える』と書いてあり、日本語訳の差に触れている。その後、訳の問題に関心が高まり、Biblehubを必ず読むようになった。田川訳を読むようになってさらにその傾向は高まっているが、原文とされるものにも写本差異があり、本当は何かを科学的に迫ることは容易でないことが分かった。神の義があることは信じているが、それに迫るには他人が書いた様々な解釈に触れつつ、聖霊に聞くしかないことも痛感した。今日の箇所では、ルカ伝6章に並行個所があるが、結構違う。WikipediaにBeatitudesという記事がある。マルコ伝に並行個所がないのも象徴的だ。諸聖人の日については、Wikipediaに記事がある。

福音朗読 マタイ5・1-12a

1〔そのとき、〕イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2そこで、イエスは口を開き、教えられた。
3「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。 4悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。 5柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。 6義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。 7憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。 8心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。 9平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。 10義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。 11わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。12喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」


福音のヒント(2)では、マタイ伝とルカ伝の比較に触れている。biblehubでは、どちらの個所も「いかに幸いなことか」で始まる詩編1編を参照個所としている。2節の「主の教えを愛し」の解釈を示した説教と考えることもできるだろう。イエスの解釈は斬新でマタイ伝では人権的、ルカ伝ではより直截的に今人権が守られていない人は幸いと説いている。私は、ルカ伝が引用した言葉がオリジナルで、それを行動指針に焼き直したのがマタイ伝なのではないかと想像する。

人権の評価も現実的には相対的なもので、戦火にあるガザやウェストバンク、ウクライナ、あるいはユダヤ人のような人が人権が守られていない人といってよいだろう。絶対的に見た時にガザやウェストバンクの人たちと、イスラエルを防衛するユダヤ人のどちらが上か下かではなく、どちらも守られていない人だと思う。比較は扇動の源泉だから、その煽りの影響を受けずにいることは難しいいが、どちらも救われるべきだと私は思う。そのためには、当事者も「敵」に対する愛が必要だろう。

世界が大きく荒れていて、「まさか」だらけだが、煽られることなく冷静に見る必要があると思う。

傍若無人に振る舞う人は、少なからず被害者意識をもっている。暴動を起こす学生やジハーディスト、暴君も似ている。自分のために暴れると言うよりは、何らかの不正に立ち向かうことに使命感を感じて動くケースもあるだろう。危ないのはある程度成功した時だ。支持者が増え、力を持つと、より大きな力を持ちたくなったり、力を失いたくないという思いに囚われる。良かれと思ったことが悪夢に変わることは少なくない。

詩編1篇は「いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず 主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。」とある。徒党を組むなという風にも読める。

ルカ伝6章24節は「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。」と書かれている。成功してしまったら、アウトだと読めなくもないが、そうは思えない。むしろ、富んでしまうと「主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。」でいることが難しくなるから注意せよという風に読むほうが適切なのではないかと思う。

徒党を組むと、隔ての中垣が生まれる。そこに入りこまず一人の人として、嘆きの思いがあっても「主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。」であろうと努力することはできるだろう。

中学入学時にこの個所に接した時は、すなおに不思議に思った。なぜ不幸な状態に置かれている人が幸せなのかわけがわからない。成功したほうが良いに決まってるじゃないかと思った。様々な競争があり、勝てなければ悔しいし、負けているやつが幸せなんてわけがわからないが、聖書に書かれているのだからきっと深い意味があるのだろうと考えて自分なりの解釈をつけていった。今ではどんな解釈をつけていたかを思い出すこともできないが、不幸な状況は不幸に違いないが、前を向いて誠実に生きることができればそれは悪いことじゃない、何にせよ神は全てを見ているから、前を向いて歩むのが成功の秘訣と自分を説得していたのかも知れない。今も成功したいという思いからは自由になれないが、「主の教えを愛し」を第一に置こうとする習慣は自分比では積み上げられてきていると思っている。周囲をよく見ることは大事だが、他人との比較は不要だ。

※画像はThe Sermon of the Beatitudes (1886-96) by James Tissot from the series The Life of Christ, Brooklyn Museum。Tissotの絵は一度見てみたいと思うのだが、ほとんどon viewになっていない(執筆時点では1枚だけ)。