新生活316週目 - 『「婚宴」のたとえ』

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第28主日 (2026/10/11 マタイ22章1-14節)」。3年前の記事がある。ルカ伝14章に並行箇所がある。WikipediaにはParable of the Great Banquetという記事がある。

福音朗読 マタイ22・1-14

 1〔そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに 〕たとえを用いて語られた。2「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。3王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。4そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』5しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、6また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。7そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。8そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。9だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』10そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。
 《11王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。12王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、13王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』14招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」》


3年前は、8月末にコロナに初感染し、10月末にはイスタンブール経由(乗り換え時に初観光)でタリン、そこからロンドンのGCUCに参加していた。そして、タリンに戻って、12月に再びコロナに感染した時期である。もうコロナ危機はほぼ終わったと思っていた。前回LDAJ設立を目指して、8月から9月にかけて活発に活動していた。たった3年前のことだが、同じ活動量を今もできるだろうかと考えると否と言わざるを得ない。また、2024年6月に砧教会が2020年6月問題に触れないと役員会決議をする前だから、出張を除けば毎週砧教会の礼拝にでていた時期でもある。

今もそうだが、『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』は自分事としても教会のこととしても意識せざるを得ない。事実に闇に葬り去った砧教会と、闇に葬り去ることに対抗し得なかった私も選ばれる側には入れないと思うのだ。その日が来るまでに身ぎれいになれれば良いが、その件に関わらず来たるべき日に身ぎれいでいられる人など恐らくどこにもいない。

イスタンブールは5月にエルドアンが勝利し「10月29日に迎えたトルコ共和国建国100周年の祝賀ムードに包まれ、街中がトルコ国旗で飾られる記念すべき月」で旗でいっぱいだった。

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国旗がいたるところで飾られている景色は異様で、危ういと感じたことを思い出す。「婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった」はナショナリスティックでガザの悲惨もアウシュビッツの悲惨も、あるいはトランプの罪をも想像させるものだ。イスタンブールはコンスタンティノープルで、東ローマ帝国時代のキリスト教圏最大の都市だったところである。今は、イスラム圏で西欧とは空気が全く違う。

3年前も「私にはどうもピンとこない記事だ」と書いていたが、今もしっくりこない。

主の祈りはマタイ伝とルカ伝にあって、マルコ伝にはない。今日の2節の神の国で用いられている単語は、マタイ伝6:10の主の祈りで用いられている御国と訳される言葉と同じ。「御国が来ますように」と書かれていて、ここイスラエルあるいはエルサレムが御国ではないということになる。現実の国は、醜い権力争いと、安全・安心をもたらす社会システムが交錯する存在であり、成熟とともに腐っていくのが一般的だ。それでも、行きつ戻りつしながら、全球で安全・安心をもたらす社会システムを構築しようとする動きは大きい。排他的な国を求めて悲惨を招き、反省する繰り返しは哀れでもある。

私には、どうにもイエスがこのようなことを語ったとは思えないのである。

「御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」は、能動的に捉えれば、広く安全・安心をもたらす社会システムを作る動きを応援して下さいという意味だろう。人の祈りとして好ましいものだが、その対象を狭く捉えさせようとする愛国者がその善意を悪夢に書き換えてしまう。どうしても、教会が信徒を縛り付けるために捏造してしまった個所なのではないかと思われてならない。それでも、力をあわせられなければ社会システムも築けない。組織を大きく、強くすると排他的になるリスクは高まる。それはこの世の現実だろう。

なにか判断する時に、御心は、原点をどこに据えるべきか、を追求することをサボってはいけない。周囲の声に耳を傾けるのは大事だが、権力や権威に流されてはいけない。

幸い観光客にとっては、日本は安全・安心な国という評判がある。右派の影響は強くあるとは言え、実はかなりキリスト教的な愛の国を実現できているのではないかと思っている。相対的には、かなり合理的な判断ができていると思うが、慢心もある。うまく行っていない原因を外部に求めるのではなく、環境変化にしなやかに対応できた方が良いだろう。誠実を是とするのは基本となる。

画像はAn etching by Jan Luyken illustrating Matthew 22:11-14 in the Bowyer Bible, Bolton, England. 画像は暴君を想起させる。今日の個所のイメージにはあうが、イエスの教えにあう気はしない。