今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第22主日 (2026/8/30 マタイ16章21-27節)」。3年前の記事がある。マルコ伝8章とルカ伝9章に並行個所がある。英語版WikipediaにはJesus predicts his deathという記事がある。
福音朗読 マタイ16・21-27
〔そのとき、〕21イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。22すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」23イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」24それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。25自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。26人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。27人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」
一回目の受難予告。日本語では、復活するという訳が充てられているが、英語ではriseという言葉が充てられていて、起き上がるというような意味。ギリシャ語ではマルコ伝ではἀναστῆναιという108回出てくる言葉、マタイ伝とルカ伝ではἐγερθῆναιという144回出てくる言葉が用いられている。いずれも特別な言葉ではない。朝になって起きるというような用途で用いられる言葉のようだ。もちろん、殺された後に起きるということであれば復活するという意味で問題ないが、三日目に(再び)起き上がると訳した方が素直な感じがする。今まで考えたことはなかったので、この個所では復活という特別な言葉が使われているのではないかと思っていた。21節の並行個所は復活するという単語に違いはあるもののほぼ同じ記述となっている。ちなみにマタイ伝22:23で出てくる復活と訳されている言葉はἀνάστασινでマルコ伝の言葉の名詞形。英訳ではほぼ100%resurrectionと訳されている。
22節からのペトロの話はルカ伝では記載されていない。新共同訳の見出しは「イエス、死と復活を予告する」だけだが、BSBでは21節からがChrist’s Passion Foretold、24節からにはTake Up Your Crossという見出しがあてられている。見出しのあて方も読み手に影響を与える。見出しが2つあると、別の話として読む。そういう視点をもって読むと、確かに受難予告と「自分の十字架を背負いなさい」という教えは別の話といえば別の話である。再臨の宣言は復活の宣言とは違う。
この時点では、イエスはともかく弟子たちは、イエスが磔刑になることは知らないから、「自分の十字架を背負いなさい」と言われても何のことだか分からない。人の子は今目の前にいるイエスのことだから、来るといわれてもピンとこないだろう。イエスの死に直面してから、しばらくして思い出して、そういえばイエスはああ言っていたと気がついて再臨の信仰につながっていったのだろう。
私の一つの解釈は、この「来る」人が死んだ時にイエスがその人のところに来るということを指すという考えだ。
イエスが来る、イエスに出会うというのは、イエスが物理的な実体として存在していなくても起きる。イエスが人として生きていた時でも目の前にいても受け入れられるかどうかは分からない。再臨のイメージは社会改革のように感じるけれど、そういう再臨は現実的な感じはしない。劇的な社会改革を行えば、例えば気温を1度下げたら様々な副作用が起きて、犠牲者も出るだろう。結構暴力的で、どうもイエスの教えとなじまない気がする。イエスと出会うと人間は内側から変化していく。自分も変わるし周囲にも影響を与える。一人の変化だから社会への劇的な効果はまず生まれないが、体質改善のように効いてくる。再臨を個人的な話として捉えると生きている時の生と死を迎えた時の生はつながっているという話になる。他者との相対的な関係ではなく、イエスとの関係性の問題に変わる。
福音のヒント(5)で28節「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」を終末と結びつけている。もし、再臨を個人的な話で死んだ時のことと捉えると、死ぬことなく再びイエスと会える人がいると解釈することもできる。生きたまま復活の主に会った弟子はいただろうが、常に共にいたようには思えない。それでもイエスに出会うことでその人の人生は変り、周囲にも影響を与える。心のなかに愛の泉が生まれるということだ。器によってその効果に違いはあるだろうが、その大きさを測るのは相対的な話であってイエスとの関係の中では意味を持たないだろう。
個々の人は、時に大きく変化することがある。邪悪化してしまうこともあるし、高潔化することもある。日々少しずつ変化しているのも現実だろう。
「自分の十字架を背負いなさい」という教えは力による支配の世界にあっても、優先すべきことは恐れずにやりなさい、イエスは、あるいは神はすべて見ているということだろう。死は終わりではないということを受難予告で触れたというように取ることもできる。まあ、結局は良い人生を送ろうじゃないかという話になるのだろう。再臨を社会改革と捉えるとイエスに対する英雄待望論になるが、再臨を個人に向いたものと捉えると個人の体質改善の相対による社会改革という地味なプロセスとなる。私は、イエスの歩みは後者に近かったように感じている。
イエス伝の一部として受難予告を読むのも勉強になるが、自分の生き方の問題として考えることもできる。
※画像はThe Prophecy of the Destruction of the Temple (La prédication de la ruine du Temple) James Tissot。