今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第21主日 (2026/8/23 マタイ16章13-20節) 」。3年前の記事がある。マルコ伝8章、ルカ伝9章、ヨハネ伝6章に並行個所がある。ヨハネ伝ではペトロは「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておれれます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」と言ったことになっている。英語版WikipediaにはConfession of Peterという記事がある。
福音朗読 マタイ16・13-20
13イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。14弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」15イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」16シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。17すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。18わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。19わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」20それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。
3年前にも「福音のヒント(4)にあるように、並行箇所には「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」の記述はない。」と書いていたが、今日の箇所で他の共観福音書にないのは17節から19節「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」は並行個所に書かれていない。マタイ伝はユダヤ人に注目したキリスト教会だったと思われるので、ユダヤ人であるペテロを中心に据えて教会を建てたと主張したかったのだろう。多少嫌パウロ、ギリシャ嫌悪の情が入っていたのかも知れない。人間は嫉妬する動物で、自分を他の誰かとは違う選ばれた存在だと思いたいのだ。しかし、その思いはイエスが捨てなさいといった業だと思う。
3年前には、「まず聖書箇所を読み、並行箇所を調べ、Biblehubを見て、英語の見出しや原文対比の部分に目を通してから福音のヒントの本文を読むようになった」とも書いている。まず本文を読むというような変化はあったが、基本的に今もその姿勢は変わらない。ただ、最近はWikipediaも見るようにしている。他の人々がどう読み込んでいるかをまとめていると思われるからだ。別に自分の解釈が他人と違っていたとしてもかまわないと思っているが、どのような解釈があるかは見ておいたほうが良いとも思っている。Confession of Peterでは以下のように書かれている。
ローマ・カトリック教会では、イエスの「この岩の上に、わたしはわたしの教会を建てよう」という言葉は、教皇制の教義の基礎として解釈されており、それによってキリストの教会はペトロとその後継者であるローマ司教の上に建てられるとされている。イエスの次の言葉「地獄の門もそれに打ち勝つことはできない」は、教皇不可謬説の基礎として解釈されている。(Google訳)
私は教皇が不可謬だとは思わないが、聖座という考え方には共感するものがある。人としての教皇の無謬性ではなく一時的に聖座につく者に、その期間の価値基準の発信を神が認めたとするシステムには合理性を感じるからだ。言い換えれば、人間は真理にたどり着くことができないが、それに近づく歩みを進めることはできるという考え方と言える。
哲学者に限らず、少し考えれば人間が真理にたどり着けないことはわかる。その上で、真理にたどり着こうとする努力は美しいと考えるか、所詮真理にたどり着くことができないのだが、自分の欲に忠実になって良いのだという風に考えるかという二択が生じる。
もう一つ注目したいのは「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」という言葉である。イエスも人間だったわけで、他の人々がどう思っているかは知りたかったかも知れない。あるいは、その言葉は誘導尋問的なものだったかも知れない。自分に降ってくる聖霊(人間の言う事など無視して良いという前提に立つ命令)と、社会常識とのギャップは解けない問題の一つであるが、個々人にとっては選ぶことが許されている。
かつて私は「この岩の上にわたしの教会を建てる」という言葉を単純に信じた。その言葉はあったかも知れないし、なかったかも知れない。ローマ・カトリックはそれを原則として成り立っていて、しかもその正統性を独占しているように見える。カトリック教会はかなり腐敗したり、危うくなった時期もある。権威の独占に溺れたと考えて良いだろう。共観福音書が複数あるように解釈は複数あってよいのだろう。伝統に奢らず真実を追求し続けたら良いと思う。
あなたはどういう選択をするのだろうか?
※画像は、Woodcut of the Augsburg Confession, Article VII, "Of the Church"素朴な感じだから深く考えている時に考えすぎてはいけないかも知れないよと問いかけてくる絵だと思う。