第一章では、石原莞爾がペルリを戦犯とせよといったという史実かどうかはわからない話も興味深かった。戦争に大義があると考える人にはそれなりの理由がある。日本の場合は民族差別への対抗がその一つとなったのは理解できる。40年前にミラノで経験した被差別体験を今も覚えている。差別者は、ほとんど自覚なく見下しているだけで恐らく自分を差別するものとして意識していなかっただろう。しかし、対当な人間として扱われないことは被差別者にとっては苦痛である。差別する側に悪意がないことは多く、運動家などから発せられる情報に耳を傾けなければ理解することさえできない。日本の右派から見れば、欧米は日本人を対当な人間として認めていないのだから、力ずくで認めさせなければやられ損になるだけだという考えに向かう。もちろん、右派でも最初から力に頼るものばかりではないし、外交努力をする人も少なくない。現在でも右派でかつ対当な対中外交を指向する政治家も少なくない。著者は「はじめに」で「「国民」という枠組みを前提とすることに懐疑的なひともいるかもしれない。だが、現在の国際秩序は国民国家を基本単位として成り立っているため、われわれはその枠組を一種の幻想と理解しつつも引き受けるべきだろう。」と書いている。この考え方に立てば、ナショナリストの大義は肯定されることとなる。私は、「われわれはその枠組が幻想であることを「自覚」して誤りとし、過去の事実を踏まえた上で異なる形を目指すべき」と考えているので大義は認められない。しかし、抗わなければ蹂躙されるだけになるという現実にも立ち向かう必要があるから、著者のロジックから学ぶことは多かった。
鎖国時代の日本が平和だったというのも幻想で、過去の「美しい日本」などと言うものは実在しないファンタジーでしかない。技術進化は止められず、いつの時代にも「ペルリ」はやってくる。長期的に見れば開国は避けられないから、ナショナリズムは敗北への近道となる。だいたい、正史は捏造されるものであり、神武天皇などどう見てもその存在は史実ではないが、それを受け入れると右派ナショナリズムは根底から破綻してしまう。それでも正史を書く人の中にも冷静に現実を織り込む人もいなくなることはない。第三章で八紘一宇に触れたところで記述の原点と、それに対する所謂解釈改憲的なナショナリズムへの誘導が書かれている。モーセ五書も日本書紀のようなもので、正統性にこだわればこだわるほど、人死が増えるのは過去の歴史が物語っている。ただ、著者が「おわりに」で書いているように「なんども繰り返してきたように、歴史は解釈であり、現在の興味関心や価値観によってつねに形を変える」。
本書には学ぶべき知識が多く含まれている。読んで損はない。