新生活288週目 - 「ピラトから尋問される〜死刑の判決を受ける〜兵士から侮辱される〜十字架につけられる〜イエスの死」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「受難の主日 (2026/3/29 マタイ27章11-54節)」。3年前の記事がある。

福音朗読 マタイ27・11-54

 11さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。12祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。13するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。14それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。
 15ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。16そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。17ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」18人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。19一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」20しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。21そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。22ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。23ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。24ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」25民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」26そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
 27それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。28そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、29茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。30また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。31このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。
 32兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。33そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、34苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。35彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、36そこに座って見張りをしていた。37イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。38折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。39そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、40言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」41同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。42「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。43神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」44一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。
 45さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。46三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。47そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。48そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。49ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。50しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。51そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、52墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。53そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。54百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。


3年前の記事では、「結局「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と話しながらも、イエスは人間として生ききって死んだ。」と書いている。人間は必ず死ぬ。ブッダも死に、モハメッドも死んだ。どちらも、病死と言われている。モハメッドは預言者と自分を位置づけていたので、預言者ではあったが、神ではない。イスラム教徒は、モハメッドが最後の預言者で、その後に預言者は現れないから、モハメッドの預言を研究して、理想社会を作ろうとする。イエスは神の子と自分を預言者以上の位置においていて、キリスト教徒は死後も存在し続けていると考えている。パウロの存在は大きく、パウロはイエスが彼に臨んだと告白している。当然、パウロが会ったイエスは人間ではない。

今日の記事は、ユダヤ教の指導者がイエスの排除に成功したことが書かれていて、ピラトは申開きしないイエスを不思議に思ったと書かれている。イエスは何を考えていたのだろうか。福音書もイエスの死後に書かれたものだから、受難予告も捏造は可能だが、恐らくその予告はあったのだと思う。ペトロは理解できなかったが、恐らく伝え聞いて知ったマリアは葬りの準備をした。もう、決まっていることであれば受け入れるしかないという心理だろうか。

福音のヒント(3)に「「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」は詩編22の冒頭の言葉です」とある。人間イエスの叫びと取るのが自然だと思うが、その時選んだ聖書個所が詩編22だったということの可能性もある。この詩編はダビデの詩で、最後の方で「王権は主にあり、主は国々を納められます」と書かれている。権力者のあるいは権力指向の視点での祈りだが、自分に王権があるとは言っていない。ダビデは戦いに明け暮れていて、力による統治を進めていた。現実社会では、力なしに世の中をまとめ上げることはできないというのが現実であり、その現実を認めて一定の力を独占しつつ、その力を使うことなく平和を維持できたら良いというのが次善策になる。イエスは力による統治を志向していたとはとても思えず、詩編22のもつ意味も違っていただろう。神の絶対性については揺るぎなく信じているのは共通だが、イエスの「地の果てまで すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り 国々の民が御前にひれ伏しますように」の解釈はユダヤの世界支配ではなく、全ての人が生き、助け合う社会を意味するだろう。イエスの脳裏には、22編全体、立ち帰りの祈りがあったかも知れない。

改めて現実社会ではある程度競争力がないと生き残ることができない。備えが足りなければ命を失うこともあるし、理想を抱えても全ての人を救うことなどできはしない。力に頼る勢力が動けば、容易に人の命は失われてしまう。止められないのであれば、自分の利になる方に行こうと考えるのは自然で、自分が生き残るためには合理的な判断と言えるだろう。しかし、その方向に流れていけば、結果的に犠牲者は増えていってしまう。

イエスを殺す側に立たないという誓いを守るのはとても難しいことだ。一人ひとりの力はあまりに小さい。何か善いことをなそうとすれば、集団の形成が必要になるが、集団を形成することはどうしても力に頼る傾向を持つ。国も教会もその罠から逃れることはできない。

イエスの神はユダヤの神と同じだ。しかし、シオニストの神は支配する神で、イエスの神はユダヤを起点に世界を救う神だ。イエスは、ピラトとの論戦を望まなかったのだろうか。あるいは無駄だと考えて黙っていたのだろうか。権力者によって殺されることで時代が変わると見通していたのだろうか。

権力による弾圧は一人の人を殺すことはできるが、それに手を付けると徐々にひずみが大きくなっていき自壊の道を歩む。イエスの死後、ユダヤは再び滅亡し、自由を失う。ローマも滅んだ。キリスト教国もイスラム教国によって相当部分が滅ぼされた。そして、イスラム教国も民を幸せにすることはできていない。しかし、不思議なことにキリスト教は消えていない。

他人に勝ちたいという欲に愛は対抗し得るということだろう。

もし自分が力を持ったら、黙り込む人を排除してはいけない、良かれと思っても無理に説得してはいけない。忍耐力のなさが神を殺す。しかし、神は殺せるように見えても、殺すことはできないのである。

宮清めのイエスに忍耐力は感じられないから、イエスも人間だったと思う。

しかし、わたされてからのイエスにはとてつもない忍耐力を感じる。十字架の上で人間として「地の果てまで すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り 国々の民が御前にひれ伏しますように」を支配ではなく愛のコンテキストで祈り、望んだのではないかと想像する。苦痛の中で、人間イエスがするべきことは祈ることだけだと信じていたのかも知れない。

十字架は暗く残酷だ。しかし、イエスの忍耐の向こうに復活と救済があった。様々な理不尽に直面しても、忍耐を忘れずに善いことの実現に向けて倦まずに歩き続けられれば良い。救いがあることが信じられればあきらめずに済む。

善いことを望んでも、命ある内に達成できないかも知れないが、それでも死ぬまで諦めないほうが良い。「地の果てまで すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り 愛の社会が実現されますように」という祈りの実現を分断を回避しながら目指すことが求められているのだと思う。微力でもゼロではないのだから。

※画像は、千葉福音キリスト教会「「十字架の苦しみ。」詩編22編」の記事で利用されている画像、出典はわからないが、Google検索でそれなりの数のサイトで利用されているもの。