新生活273週目 - 「洗礼者ヨハネとイエス」

今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「待降節第3主日 (2025/12/14 マタイ11章2-11節)」。ルカ伝7章に並行箇所がある。3年前の記事がある。

福音朗読 マタイ11・2-11

2[そのとき、]ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、3尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」4イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。5目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
6わたしにつまずかない人は幸いである。」
 7ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。8では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。9では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。
 10『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
   あなたの前に道を準備させよう』
と書いてあるのは、この人のことだ。11はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」


ルカ伝の並行箇所は一致度が高いが、マルコ伝に並行箇所がないので、このシーンは実際にはなかった可能性もある。

3年前の記事で私は「しかし、イエスは裁く者ではなかった」と書いている。ヨハネは力をもって世を直す人を想像していた可能性は高い。そして、現在の使徒信条では「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん。」となっているので、再臨のイエスは裁く者と捉えている。果たして、本当にそうだろうか。緊張感をもって生きなさいという考え方は望ましいように思うし、いつかその日は来ると考えるのも自然な感じがするが、自然科学の発展で地球が辺境の惑星であることも分かっているし、大きな時の流れの中で人間が存在している時間の短さも分かっている。この世の終わりが科学的に何を意味するのかは容易には想像できない。むしろ努力次第で愛の満ちた社会に向かうか、専制と隷従、圧迫と偏狭が常態化した社会に向かうかの選択が迫られていると考えるほうが理解しやすい。

死後どうなるかは誰にもわからないから、あの世(天の国)があって、そこに勝者と敗者が存在するという考え方も成り立ち得るだろう。それを前提にしてイエスの教えに従って生きるのであれば、愛と正義の機能化が取り組むべきテーマになるから、結果的にこの世を愛も満ちた社会に向けて改善していくことになるだろう。どちらにしても、やることは変わらない。

難しいのは、正義である。正しさの解釈は価値観に左右されるので意見は分かれる。イエスは律法学者に厳しかった。権力を不当に行使する者もいただろうが、誠実に丁寧に社会秩序の維持を目指した人もいただろう。置かれている状況にかかわらず公平に裁こうと努力した人もいたはずだ。しかし、それよりなお福祉の向上に重きを置けという教えだったと考えて良いだろう。

「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、」は治癒行為であるが、科学的アプローチで福祉を向上させることは可能である。実際、教会は研究・教育を行い医療機関を機能させてきた。現実的にできることを拡大させていった。また「貧しい人は福音を告知されている」は今の言葉に引き直せば、「誰ひとり取り残さない」という姿勢を意味している。敵であっても傷病者を救い、個々人に希望を与えよという思想に繋がっている。

それでもなお、その貢献度を比較評価したくなる誘惑からは脱することはできない。また、良い思いで始めても失敗することはある。共産主義に輝かしい未来を夢見た人もいるだろう。権力を掌握できなければできないこともある。権力はどうしても排他的になるから、一部の問題は解決できても強くなればなる程弊害も大きくなる。属人性を廃するシステムが望まれるが、短期的には専制体制の方がスピードが出るので時間をかけて作り上げたシステムも常に後退させられる危険にさらされている。

改善に終わりはない。失敗も避けられないが「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」状態を作り上げていくことが目指すべき道となる。この福音という言葉は原文ではεὐαγγελίζονται (euangelizontai)という単語で、マルコ伝では使われていない単語。英語ではエヴァンゲライズ(evangelize)という言葉にも対応する単語、BSBではgood news is preachedという複合語に訳されている。他の訳でもgood newsという言葉が含まれている。本当のところはどういう意味を持っていたのであろうか。ちなみに、マルコ伝では複数回εὐαγγέλιον (euaggelion) という言葉が使われていて日本語では同じ福音という訳だが、英訳ではgospelという訳があてられていていてgood newsとは異なる。そしてこの言葉はパウロ書簡や使徒行伝では使われているがルカ伝では出現しない。ちなみに英語ではあのエヴァンゲリオンという言葉でもある。Wikipediaにはgospelは福音書を指すとしている。マルコ伝1:1で使われ、1:15でイエスの発言として記録されている。原語ではeu (good) + angelos (messenger)ということらしい。まあ、good newsに近いと考えて良いだろう。「時は満ち、神の国は近づいた」が良いニュースと捉えることもできよう。あるいはイエス自身をエヴァンゲリオンとする考えも成り立ち得る。

イエスが宣教を始めてからもヨハネを尊敬し、彼が社会を変えることを期待していた人は少なくなかっただろう。イエスはヨハネから洗礼を受けているから、ヨハネを信奉する人々から見るとイエスは同志の一人に過ぎない。預言者であるヨハネはイエスの特別性を理解していただろうが、来たるべき方にダビデ的、あるいはモーセ的なイメージを持っていたのだろう。弟子たちの中にも、イエスにニューリーダーを期待する思いはあった。しかし、イエスは権力あるいは武力の掌握の道は歩まなかった。そうではなく、一人ひとりのQOLの向上に尽くした。それが「貧しい人は福音を告知されている」に集約されていると言える。国や集団が力を持つことではなく、罪人を含めて一人ひとりの人、命に重きを置いた。ヨハネにも、ヨハネの支持者の多くにも理解できない行動だったに違いない。確かに多くの治癒奇跡を行っていて、どう考えても只者ではない。しかし、彼に率いられた人々が力を持ち、新たな国の作り直しに取り掛かる気配はない。本当にこの人が来るべき方なのだろうかと疑問を感じるのも当然である。

しかし、歴史を振り返って見れば、イエスの言葉は消えることはなかった。制度として残っているのはカトリックのコンクラーベで、異様なまでの民主主義システムが織り込まれている。腐敗もあったが、独裁者を選定することのないように設計されている。組織が硬直化すれば、原点回帰を目指すプロテスタントも生まれた。信仰の問題を一旦横においたとしても大成功を収めたコミュニティと言える。

マタイ伝はユダヤ国家の正統性を念頭に置き、ルカ伝はクリスチャンというコミュニティの正統性を念頭に置き福音を解釈している。そういう意味では、異国・非クリスチャンに対する排他性はそこここに顔を出すが、イエスに立ち戻ればその解釈がそのまま受け入れられることはない。ヨハネがイエスに躓いたかどうかは書かれていないのでわからないが、彼は彼で真剣に神の国の到来を見ていただろう。今の私達は、ヨハネの正義ではなく、イエスの愛こそが時代を超えたことを知っている。アドベントの時期に改めて正義より愛に思いを尽くすことが求められる。しかし、愛は不義に目を瞑ったままで育つものではない。不義を犯し続ける人であっても愛をもって接することが勧められているが、不義そのものを許してよいわけではないのである。最終的には自分の道は自分で決めなければいけない。イエスがその決断をどう見るかは意識しないわけにはいかない。独善か真に誠実かは最終的にはイエスに聞くしか無いのだ。必要な時には、その道は示されると信じる。

※画像は、The ART Pasterによるεὐαγγέλιον解説の図を引用させていただいた。