新生活270週目 - 「十字架につけられる」

今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「王であるキリスト (2025/11/23 ルカ23章35-43節)」。マタイ伝27章、マルコ伝15章に並行箇所がある。3年前の記事がある。

福音朗読 ルカ23・35-43

 35〔そのとき、議員たちはイエスを〕あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」36兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、37言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」38イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
 39十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」40すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。41我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」42そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。43するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。


3年前の記事では、「福音のヒントにある教会暦の「王であるキリストの祭日は年間最後の主日にあたります」を読むのは3回目となった。C年(ルカ伝)の終わりということになる。復活のシーンは出てこない。翌週から年が変わり待降節となる。」と書いてある。つまり、今日は6回目ということになり、来週はA年になる。

40節以下の話しはマタイ伝、マルコ伝には存在しない。福音のヒント(4)には「きょうの箇所の中で、「王」というテーマはむしろ42-43節の犯罪人とイエスとの対話の中に表れてきます」と書かれている。この犯罪人とイエスがそのような話をしたとしたら、確実に書かれなければならないような内容なだけに信憑性は低い。2つの言葉の一つバシレイア(βασιλεία (basileia))は163回の頻出語、もう一つのパラディソス(παράδεισος (paradeisos))は3回しか用いられていない言葉で、2コリと黙示録で使われているだけだ。2コリの箇所は恐らくパウロ自身を指す招天の不思議な話で、わけがわからない箇所。ルカ伝の著者はパウロの影響を強く受けているので、今日の箇所は盛った箇所かもしれない。ただ、福音のヒント(4)の解釈は好印象である。

磔になって死ぬことになるかは別にしても、自分の死を悟った時に、自分は死んで当然の存在だが、となりに磔のイエスがいると感じられて、どうか私のことを心に留め置いて下さいと話すことができたらどんなに良いだろうかと思う。

改めて、「御国」とは何かも考えさせられる。コンテキストから考えれば、イエスがいて父なる神がいる国ということになるのだろうが、英語でほぼthe kingdomと訳されるこの言葉は何を意味するのであろうか。ちょっと考えてみると、誰一人互いに完全に幸せになるペアなどはない。本心から愛していたとしても、相手の満足を完全に充足することなどできはしない。御国に入る、あるいは御国に受け入れられるという状態は、互いに今のままの自分ではいられないのは間違いない。では、もし御国で受け入れた場合、その私は私なのだろうか。もし私でさえ救われたとしたら、自分と反りの合わない人も相当数が救われているに違いない。御国では反りが合わないということはないのだろうか。そうだとしたら、その自分は自分ではないような気がする。それは本当に幸せなことだろうか。自分の内なる毒が取り去られ、嫉妬も感じなくなれば素晴らしいようにも感じられるが、解決すべきと感じられない状況でどうやって元気が出るのだろう。

楽園paradeisosの方は何となく苦痛あるいは痛覚から解放されているが、意識は残っている状態という感じがする。幽体離脱と言われているような状況かもしれない。それが楽園であれば、恐らくもう一人の受刑者も今日楽園にいるであろうということになりそうだ。パウロの第三の天はそういう状態かもしれない。問題は、それからのことだ。イエスはそこを通ってから復活したという理解で良いと思う。1人の罪人は、その状態の時にイエスと会っているということになり、もう一人も恐らくその楽園には行っているが会えたかどうかは書かれていないからわからない。

ちなみにマルコ伝9章の「罪への誘惑」という箇所で地獄に投げ込まれるという記載があり、イエスが発言している箇所だ。そことあわせて考えれば、楽園を経て、地獄行きもあれば御国行きもあるということなのだろう。御国に行ったら殺人者が被害者と会うこともあるだろう。もう自分が殺されたこともどうでも良くなり、殺したこともどうでも良くなるということだろうか。まあ、正直に言って理解に苦しむところである。

しかし、「悔い改めて福音を信じなさい」というメッセージを思い起こせば、悔い改めてイエスの教えを信じなさいという言葉は救いに満ちている。過去ではなく未来を見よというメッセージとも取れる。あの罪人は、最期にイエスについていくことを決断し、救われたと考えることができる。

基本的には今イエスの教えに従うか否かしかできることはない。自分自身の生はその集積なのだが、その人にとって重要な瞬間にどうだったかで過去の集積とは無関係に御国行きは決まるのだろう。だから、目を覚ましていなさいということになる。

私は、日曜日の礼拝で、先週もたくさんの罪を犯しました、お許しくださいという祈りは人前で口に出す祈りとして適切ではないのではないかと最近は思っている。誰でも罪を犯すし、犯さずに生き続けられるなら、それは本人が善良だからと言うよりは、そういう環境に置かれているからだと考えるほうが現実的だと思う。ただただ、日々イエスについていく決心を新たにし、自分のできる範囲で、最善の努力をしていくしかない。自分の人生、あるいは他人の人生を評価する時はその蓄積で見るしか無いだろう。生きているうちに解決できる問題はできるだけ解決したほうが良い。

ひょっとすると、私にもあなたにも最期の時には、隣に十字架のイエスを感じることができるかもしれない。その時、全てが反転することだってあるだろう。誰もが地獄行きが必然なのに、なぜか御国に入ることができる人はいるらしい。あきらめずに自分のできる最良の努力をするしかない。

※画像は、Andrea Mantegna: Crucifixion