今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「キリストの聖体 (2025/6/22 ルカ9章11b-17節)」。マタイ伝14章、マルコ伝6章に並行箇所がある。3年前の記事がある。
福音朗読 ルカ9・11b-17
11b〔そのとき、イエスは群衆に〕神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。12日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」13しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」14というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。15弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。16すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。17すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。
福音のヒントの冒頭に「灰の水曜日から聖霊降臨の主日まで3ヶ月以上にわたって過ごしてきた四旬節・復活節の余韻として、「三位一体の主日」「キリストの聖体」「イエスのみ心」という3つの大きな祝日があります」とある。カトリックでは今日も大きな祝日らしい。
3年前の記事には、さらに1年前のヨハネ伝の並行箇所に触れられている。その引用記事のリンク先が切れていて当時何を読んでいたか思い出せない。
改めて、朗読箇所3つを読み直してみると、福音のヒント(4)で書かれている「イエスの食事の特徴」が気になった。
第一朗読 創世記14・18-20
18〔その日〕いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデク〔は〕、パンとぶどう酒を持って来た。19彼はアブラムを祝福して言った。「天地の造り主、いと高き神に/アブラムは祝福されますように。20敵をあなたの手に渡された/いと高き神がたたえられますように。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に贈った。
第二朗読 一コリント11・23-26
23〔皆さん、〕わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、24感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。25また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。26だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。
第二朗読の一コリの箇所は聖餐式で制定語として引用される箇所である。「五千人に食べ物を与える」と聖餐を関連付けるのは不思議な感じがする。第一朗読のメルキゼデクはヘブライ書で8回(Μελχισεδέκ)、旧約聖書(מַלְכִּי־צֶ֫דֶק)ではこの箇所と詩篇110篇で出てくる2回のみ。ヘブライ書では、イエスをメルキゼデクと同格の大祭司と位置づけている。創世記はメルキゼデクのアブラハムへの聖餐、一コリは使徒への聖餐を引用したパウロの信徒への聖餐、ルカ伝はイエスの民衆に対する聖餐と読むこともできる。
改めて考え直すと、私には、イエスの食事の特徴というより、聖霊の働きに基づく聖餐の形と感じられる。メルキゼデクもパウロも人間イエスも神・聖霊によって命じられ、あるいは確信を与えられて行動しているという解釈が成り立つ。プロテスタント教会で行われている聖餐式は、司式者に聖霊が働いて聖餐を執行していると解釈できるが、その瞬間に聖霊が働いている感覚はなく、単なる儀式になっているのが現実だろう。しかし、洗礼式のときには何度か本当に聖霊が働いていると感じさせられたことがある。感じられなかった式もある。
聖餐は福音を述べ伝えよという送り出しとも言える。民衆への聖餐も福音宣教の送り出しと取ることはできなくはない。往々にして送り出された側に自覚や使命感はない。創世記は一人に対するもので、最後の晩餐は限定的な対象、パウロの聖餐は初期の信徒に向けたものでやはり限定的。限定的であれば契約を意識しやすい。ちなみにマタイ伝、マルコ伝の箇所では湖上で嵐に会い、弟子たちがこの給食の奇跡を理解できていないことで叱られている。その場にいても、自分には関係の薄い話とやり過ごしてしまうことがある。聖餐の時は、繰り返しの要素があったとしても今一回だけの奇跡と気がつけるのが望ましいだろう。
カトリック教会のカテキズムでは聖餐という言葉ではなく7つの秘跡の3番目のエウカリスチアの秘跡として記述されている。入信の3秘跡、洗礼、堅信、エウカリスチアとなっている。堅信は信仰告白にあたる。
カテキズムは現代(発行時点)での理解の文書化で、新たな発見があれば改定されるものだ。常識的に考えれば思いつきの解釈より遥かに深いと言ってよいが、現代で秘跡という表現を使うことに無理を感じられなくもない。
記念日だから聖餐式をやるというのはよく考えると変だ。霊が動いた時に聖餐が成り立つと考えると「五千人に食べ物を与える」は、その時霊がイエスに命じたと考えることができ、だから神への感謝が強く出ていると考えてよいだろう。儀式化した聖餐式で果たして霊は動くのかという疑問は残る。
儀式化は当初の使命感を忘れてしまわないようにする効果が期待できるが、習慣化してしまうと「主の死を告げ知らせる」が希薄化しかねない。一方で、非日常的なことは起きる。教会での聖餐式は、その日、その時の一回限りのものだ。惰性や、形式的にではなく、与えられたただ一度の機会に感謝して祈り、参加することが望ましい。
※画像はメトロポリタン美術館のサイトから引用させていただいたパブリックドメインのThe Meeting of Abraham and Melchizedek, from The Story of Abraham。時代とともに解釈は変化するが、アブラハムやメルキゼデクの実態はどうだったのだろうか。