1年ぶりに砧教会の礼拝に参加した

昨年6月に砧教会が新たな組織決定をし、その翌週から地元の教会に通わせていただいている。それからちょうど一年。私は今でも、権威主義者に堕ちてしまった牧師が悔い改めるか、会員が覚醒して砧教会が正常化し、また共に歩める日が来ると信じている。一度道を踏み外してしまうと、正常化は容易ではない。一年間の冷却期間を経て、礼拝に出席したら惨状は目を覆うばかりだった。佐分利正彦氏が最前列に陣取っているのは以前と同じだが、礼拝出席者は以前より減っていて、役員が礼拝前に談笑していたり、まるで惰性で続いている礼拝であった。ある程度予想していた変化とは言えとても悲しかった。

聖書箇所はマタイ伝10章

10:-1 平和ではなく剣を

34 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。35 わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。36 こうして、自分の家族の者が敵となる。37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。38 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。39 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」


説教は最低だった。金井美彦の視点は権威主義的牧師視点で、この剣をもたらすを戦争になぞらえ、信者はオウム真理教的な出家で家を出ることを推奨していると取れる危険な箇所と曰わった。説教で愛という言葉も出てこない。もはや伝道者とは言えないレベルである。教会員の目は節穴なのだろうか。以前輝いていた研究的な視点での聖書の読み込みも全然ない。先人の解釈の引用もない独演会に辟易とさせられた。

私のこの箇所の解釈は、まず「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」ついで、「隣人を自分のように愛しなさい。」を真摯に実践すると自分の家族も(一時は)敵になるということだ。根底には、既存の律法解釈や常識を超えて愛を実現できる望ましい姿を求めれば軋轢が生じるという指摘である。自ら敵対的になることを求めているわけではない。真理を追求すると敵を作ってしまうということである。イエスより家族を愛するものは神の国にふさわしくないという言明は、愛より過去の常識や律法解釈に従うものは神の国にふさわしくないという意味だろう。愛に満ち溢れた御国のこの世での実現のためには、仮に処刑されることになったとしても真実一路をつらぬけという教えであり、仮にそれで命を失うことがあっても、決して神はその人を見捨てることはないと言っているのだと解釈している。決して、孤立排他的なカルト集団として戦えと言っているわけではない。

愛に満ちた社会の実現のためには、変化の許容は不可避であり、新たな発見とともに軌道修正をしなければ近づくことはできない。律法は廃れないが、垢のたまった律法解釈は上書きされなければいけない。判例主義が度を過ぎれば進歩を阻害する。保守は亡国だ。権威主義は破滅の入口である。善人も慢心すれば悪魔と変わらない。

5年も経過すると愛も冷める。もう砧教会や金井美彦など見捨てれば良いと思う気持ちもあるのだが、改めて「隣人を自分のように愛しなさい。」という言葉が響く。砧教会という家族を敵に回してしまったが、真実一路を曲げてはいけない。真理は汝を自由にするという信仰解釈に根ざしてこれからも真理を追求していく。金井美彦、佐分利正彦の生きている間の回心を引き続き祈る。

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