今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「三位一体の主日 (2025/6/15 ヨハネ16章12-15節)」。3年前の記事がある。
福音朗読 ヨハネ16・12-15
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕12「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。13しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。14その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。15父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」
3年前には「三位一体の主日(Trinity Sunday)はプロテスタント教会では特別な日ではない。」と書いている。Wikipediaはそれなりに頻繁に更新されているが、差分を見る限り3年間で大きな変更は見受けられない。非常に荒っぽく言えば、ペンテコステで聖霊降臨があったので、それに引き続いて三位一体が認識されるようになったから祝うという話だ。『カトリック教会のカテキズム』の「三位一体の教義の形成」では二コリ13:13の挨拶が引用されていて、パウロの理解が三位一体の教義と通じていることがわかる。より時代が進むにつて明確な定義が必要になり、祝日となったのは14世紀、高位の祝日になったのは20世紀で、16世紀の宗教改革で簡素化が進む中でクリスマス、イースター、ペンテコステ以外の記念日はその他記念日に位置づけられ、現代のプロテスタント教会でも三位一体の主日は特別な日ではない。ただ、聖書日課の共通化の動きもあるため、改めて祝日が祝われていることを意識する機会は増えていると思う。
三位一体の主日の第二朗読は、ロマ書5:1-5で、福音朗読同様聖霊に関する記述となっている。
第二朗読 ローマ5・1-5
1〔皆さん、〕わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、2このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。3そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、4忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。5希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
聖霊によって真理を知るという考え方はキリスト教の根幹の一つと言えよう。
しかし、現実には真理観は一致しない。愛が正義解釈に劣後してしまうことは多い。自分の位置を正しい方に置きたいという我欲に負けてしまう。牧師さえ保身で事実を曲げる。与えられた聖霊の声を聞くことができなくなったら信徒を導くことはできようがない。そうなっても悔い改めることができれば大丈夫という考え方が救いになる。
割と輝かしいイメージが強い朗読箇所だが、現実が厳しいことを忘れること無く読んだほうが良いと思っている。
ちなみに福音のヒント(1)に出てくる「真理」という言葉ἀλήθεια (alétheia)はマタイ伝1回、マルコ伝3回、ルカ伝3回、ヨハネ伝では頻出単語で、書簡でも頻出し、総計109回となっている。私は真理の霊は伝説の科学者にも降ったと考えている。ahaと形容されることもあるが、突然わかった理由はわからない。同時に、わかったと思っても後に誤りだと気がつくことはしばしばある。象徴的なのは地動説でずっと真理だと思っていたことが実は誤解に過ぎなかったことが判明した。真理の霊は聖職者の欺瞞を暴く。必ずやがて真理は明らかになると信じることが信仰の原点と考えても良いだろう。
真理は各自の思惑とは無関係だが、価値基準は常識が決め、常識は揺らぐ。不都合な真実が明らかになれば劇的に変化することもある。律法は基本的には常識の文書化だ。真理の霊を求めるということは、常識あるいは法の変化を許容することを意味する。真理を求める動きが時代を動かすが、それは権力の移行を意味し、新たな権力はさらなる変化を妨害する側に回ることが多い。その時に重要なのは愛である。
※画像はTrinity Sunday経由で到達したLuca Rossetti Trinità Chiesa San Gaudenzio Ivrea。父、子、聖霊をイメージ化するとこんな感じになるのはわからないでもないが、霊は目に見えないし、神が実態を持つのは理にかなわない。偶像を作ってはならないという教義は良くできていると思う。