今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「聖霊降臨の主日(2025/6/8ヨハネ14章15-16, 23b-26節)」。3年前の記事がある。今週は、3つの朗読箇所を引用させていただいた。
第一朗読 使徒言行録2•1-11
1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
5さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、6この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。7人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。9わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、10フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、11ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」第二朗読 ローマ8•8-17
8〔皆さん、〕肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。9神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。10キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。11もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
12それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。13肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。14神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。15あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。16この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。17もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。福音朗読 ヨハネ14•15-16, 23b-26
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
23bわたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。24わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
25わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。26しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」
3年前の記事で福音朗読の部分に触れている。3年を経て読むと、当時はそんな風に考えていたのかと思い感慨深い。特段の違和感があるわけでもなく、異論があるわけでもないが、3年あるいは5年が経過すると感じ方には変化が出る。
遣わされた弁護者に気がつくことができているかが問われる。与えられた試練に立ち向かう姿勢も時間が経過すれば変質する。怒りや困惑の感情は時間が経てば薄れていく。一方で、課題が解決されなければ試練は続いていく。
今日の3つの朗読箇所は使徒行伝、ロマ書、ヨハネ伝が選ばれている。ロマ書はパウロの解釈で、使徒行伝は記録報告の位置づけ、ヨハネ伝は当時の教会が採択した解釈と考えることができる。使徒行伝、ヨハネ伝は2世紀になってから文書化されているのに対して、ロマ書は50年代。ロマ書の頃、既にギリシャにキリスト教会は存在していて、ローマに影響を及ぼし始めている。パウロは福音書も使徒行伝も存在しない時期に布教活動を行っていたわけだから驚異的なことだ。しかも生前のイエスの弟子ではないから、リアルにイエスの伝道活動に参加していたわけではない。「イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」という表明は彼の強烈な体験に根ざすものだろう。パウロ書簡を見れば、イエスが復活して、パウロは復活・昇天後のイエスに会ったとしか思えない。主の晩餐(最後の晩餐)の記述はコリント前書にあり、共観福音書に出てくるが、もちろんパウロは同席していない。
使徒行伝のペンテコステの記述はパウロが回心する前の事件の記述だが、文書化されたのはパウロ書簡より1世代以上新しい。親の代、親の親の代の伝承をまとめたものだ。考え方によっては日本の天皇制がどうやって成立したかを明治維新の頃に調査報告するのに近い。ペンテコステの記述はある種正史の記述と取るべきだろう。
一方、パウロの書簡はリアルだ。生きた初期の信者の意見表明である。当然使徒行伝の著者、編集者はその事実を知っていて、整合性をとる必要があった。
どうやらイエスが本物らしいと考える人が増え、組織化が進むに連れ、正統性が重要になってくる。パウロ書簡は自分の体験に基づくものだから強力だが、霊の働き方は一様ではない。福音書記者に霊が降らなかったと考えるのは不適切だろう。生誕物語の記述が聖霊の役割だったかどうかは検証できないが、単なる捏造と考えるのも浅薄な感じがする。ヨハネ伝はヨハネ伝なりの聖霊の働きがあるのだろう。ただ、確実に人の手が入っている。組織内の権力抗争の影響も受ける。ノイズは確実に乗る。改めて現在の新約聖書の構成を見ると、相互に矛盾する3つの共観福音書、ヨハネ伝、使徒行伝、初期書簡、黙示録となっていることには結構善意を感じるのである。共観福音書は正史として1本化されることはなく、教義化志向のヨハネ伝が巻頭にあるわけでもない。それらの福音書を中心として、初期の教会史が使徒行伝として記録されていて、書簡は参照文献と取ることができる。黙示録は公認預言書ということになるのだろう。
第一朗読のペンテコステの記述は、教会史の原点となる。恐らく何らかの事実はあっただろうが、聖霊の働きは、もっと個人的な体験だったのではないかと思う。復活を確信する人が現れてきて、コミュニティ化が進んだのだろう。パウロほどのインフルエンサーでなくても、何人もに霊は降った。分散的に降って、ついで連携が進んだのだと考えている。それは現在でも変わらない。今も、霊が降って信仰告白ができるようになる人が出る。勘違いもあるかも知れないが、やはり霊が降ること無く新たな歩みを始めることはできないだろう。
ペンテコステを見て信じた人の中にもやがてコミュニティから離れていった人もいるだろう。それでも、彼らも霊に触れた経験を忘れることはできないと思う。後は、個人の選択だ。真実を求めた結果分派が生まれることもある。
パウロの表明と自分に降った霊の指し示す道の一致点、相違点を認識し、ペンテコステの場にいる自分を想像し、ヨハネ伝が示す教義を一旦是として自分の進む道を決断する。ペンテコステは、自分の信仰生活の原点を見直すきっかけとできるイベントと捉えてもよいだろう。イエスの復活への信仰は譲ってはいけない一線だろう。事実の記録が空の墓で終わっていたとしてもだ。
※写真は、英語版Wikipedia Pentecost経由でたどり着いたA prayer walk on Pentecost in Tavna Monastery, Bjeljina。現代でも記念行事が行われている。折り目に記憶を呼び起こす効果があるだろう。記憶を呼び覚まし、自分事として考えられれば望ましい。