新生活240週目 - 「イエス、弟子たちに現れる」

今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「復活節第2主日 (2025/4/27 ヨハネ20章19-31節)」。各福音書に並行箇所があるがトマスに関する記述はヨハネ伝に限られている。3年前の記事がある。

福音朗読 ヨハネ20・19-31

 19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
 24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
 30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。


ディディモ(1324. Δίδυμος (Didumos))という言葉はヨハネ伝にしかでてこない。英語版のWikipediaのトマスの記述はかなり長い。Google翻訳で日本語にしても自然に読めるので、一読をおすすめしたい。

ヨハネ伝はイエスの権威の極大化を意図しているとしか思えない側面があるが、一方で、トマスのように懐疑的アプローチも許容しているところが興味深い。思想に興味があるに人には届きやすい文書だと思う。理解を大事にする人には届くものだ。しかし、信じたからと言って盲目的になってはいけないと考える人もいるだろう。この箇所は3年前にも書いた。その記事では「トマスは疑い深かったが、心の扉を開けてイエスを迎え入れ、多くの人に福音を伝える人に変えられたのだろう。」と結んでいる。今読み直すと、自分のありたい姿への願望のようにも読める。

ディディモは双子を意味し、トマス(ユダ・トマス)をイエスの双子と書く非公認福音書も存在すると言う。ペトロから教皇の座を奪ったヤコブも主の兄弟ヤコブとする説もあり、それらが事実であったか、あるいは権力闘争の中での捏造だった可能性もある。いずれにしても、血の繋がりは当時も重要な意味を持っていたということだろう。

一方で、イエスは血のつながりに意味などない「アブラハムの子などと思うな」という発言をしたとも書かれている。

私は、権威を振りかざすものはまがい物だと思っている。血筋もその一つだが、それにとどまらず幻想に依存してはいけない。他人に対してもあくまで人ではなく発言や行動に注目したら良い。改めて読み直すと、この箇所の史実はなかったのではないかと思う。

※画像はインドの記念切手