今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「復活節第6主日 (2026/5/10 ヨハネ14章15-21節)」。3年前の記事がある。並行個所はない。
福音朗読 ヨハネ14・15-21
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。18わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。19しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。20かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。21わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」
3年前にも触れているが、福音のヒント(2)で「この箇所で、聖霊は「別の弁護者」と呼ばれています。「弁護者」はギリシア語で「パラクレートスparakletos」です。」とある。田川建三は14:12〜14:25は加筆部分としている(ただし、16-19は不明としている)。
この弁護者(Παράκλητον (Paraklēton))という言葉は、BSBではadvocate(代弁者)、他の英訳ではHelper、Comforterなどと訳されている。田川は「助け手」と訳を当てている。ヨハネ伝で4回、一ヨハで1回しか出てこない。共観福音書には出てこない。この個所のπαράκλητονは一ヨハ2:1で出てくるが、一ヨハは恐らくヨハネ伝の加筆者(集団)の文書と考えられていて、なるほどそういうことかと納得させられる。
17節の真理の霊で用いられているのは、πνεῦμαで383回の頻出語。これを別の弁護者の説明のように書かれている。
ヨハネ伝加筆者は告別説教のメインテーマを聖霊に置いていて、繰り返し触れている。聖霊を送るということが何を意味するのかは、簡単に説明することはできないが、ヨハネ伝を読むと被告化した時に必要で有効な反駁は聖霊によって与えられるから心配するなという印象を受ける。ある意味、日和るなというメッセージにも取れる。
生きていれば、誰でも様々な困難に直面する。望み通りにならないことは多い。多くは、我欲に原因があり、愛あるいは他者への配慮、気配りが不足していることから行き詰る。もちろん、鍛錬不足で無理をしているからうまく行かないことも少なくない。忍耐不足もある。祈りを重ね、聖霊を待つあるいは送られている聖霊のメッセージに聴くということは謙虚である状態を望むことでもあり、同時に卑屈にならないように自分を信じることでもある。
共観福音書の記事は、例え話であってもある程度具体的な状況を想像させるのに対して、ヨハネ伝、特に告別説教は抽象度が高く心が現実から引き剥がされる傾向が強い。言い換えれば、自分が現実に直面している困難から意識が飛んでしまうことになる。ある意味で、綺麗事化されてしまうので受け入れやすくなる。現状逃避的な満足感を得やすい。
規範としては、そのまま受け入れて良いと思うが、現実と向き合わなければ直面する困難を乗り越えることはできない。必ず乗り越えなければいけないわけではなく、別の道を探しても良いケースもある。無理に困難を乗り越えようとすると悲惨な結果を招くこともある。何をやり過ごし、何に立ち向かうかは、最終的には自分で選ぶしか無い。それが現実世界というものだ。
例えば「それでも地球は回っている」という声明は発見したと思われる真実を当時の非常識であっても主張するという道だ。そういう話は、山のようにあって、恐らく誰にでも自分の発見あるいは再発見はある。地動説だって、知識で納得することと自力で再発見することは違う。また、その再発見も繰り返し上書きされていく。ああ、こういうことだったのかと分かったとしても、さらに先がある。恐らく終わりはない。何度聖書を読んでも発見はあり、過去の理解は上書きされていく。
発見があれば、自分がやるべきことも上書きされていく。一人ひとりの力は小さくても、やがて世界は変わっていく。自分を信じながら、世捨て人になることなく謙虚になすべきことをやっていけば良い。
「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」は救いである。ヨハネ伝加筆者は全力でイエスを愛して加筆したのだろう。オリジナル、あるいは正典だけではなく、加筆にも意味がある。私たちもまたイエス伝の加筆者でもある。
※画像は、Duccio di BuoninsegnaのChrist Taking Leave of the Apostles。弟子たちは、神々しく描かれるが、イエスが生きていた時点でのその行動はちっとも立派ではない。しかし、彼らはイエスを愛し、加筆者となった。そして、聖霊は降った。