新生活241週目 - 「イエス、七人の弟子に現れる〜イエスとペトロ」

今週も福音のヒントの箇所から学ぶ。今日の箇所は「復活節第3主日(2025/5/4 ヨハネ21章1-19節)」。直接的な並行箇所はない。3年前の記事がある。

福音朗読 ヨハネ21・1-19

 1その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。2シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。3シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。4既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。5イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。6イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。7イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。8ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。9さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。10イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。11シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。12イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。13イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。14イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。
 《15食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。16二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。17三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。18はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」19ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。》


 豊漁の奇跡は英語版Wikipediaの記事がある。ルカ伝とヨハネ伝にあり、ルカ伝では弟子を募集している段階、ヨハネ伝では復活後の話になっているが、マタイ伝、マルコ伝には存在しない。福音のヒント(1)に解説がある。

福音のヒント(5)にも出てくる「わたしの羊の世話をしなさい」という言葉は、英語では“Feed My lambs.”と訳が当てられている。直訳では餌をやれという意味となる。言い換えれば持続性のあるシステムを作れという意味と取れるだろう。現実には、原始共産制に持続性はなく、現在の献金制度の確立に向かうことになった。どうやって人々の食と安全を守るかという課題は現代でも解決されてはいない。ネタニヤフはガザに飢餓をもたらし、トランプは不遇の人を焚き付けてより生活苦を強いている。日本の戦中の「欲しがりません勝つまでは」の暗黙の強制と同じである。しかし、人は熱狂してしまう。

特定の人への依存心をどう制御していくかという話でもある。マスクは右派の声を弾圧するなと叫ぶ。捨象すれば右派は依存の推奨勢力である。勝ち馬に乗ればすばらしい未来が約束されるという幻想をいだけという主張となる。現実を冷静に評価すれば独裁は必ず破綻しているから、どう考えても幻想に過ぎない。さらに言い換えれば、大きな権力を手にしている人が右派を推奨するということは、自分に依存せよと主張していることに外ならない。トランプや安倍あるいは事実を弾圧する牧師や古参信徒と同じ穴の狢である。一方で、そういう扇動者は繰り返し出てくる。そして、繰り返し支持されてしまうのだ。

もし、イエスが本当に『ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた』のであれば、右派の扇動と変わりない。マタイ伝にある「まず神の国と神の義を求めなさい」という発言と矛盾する。それを解決できるのが三位一体の解釈で、三位一体の解釈が成り立てば、「わたしに従いなさい」と「まず神の国と神の義を求めなさい」が無矛盾になる。それでも、イエスの言葉の解釈者への依存は残る。決してリスク(人的依存)はゼロにはなりえない。預言者と偽預言者を区別できないから、聖霊の働きに期待するしかなくなる。そう考えると、三位一体説は本当によくできていると思う。

では、三位一体説の起案者が邪悪な扇動者だったかと言えば、おそらくそうではないだろう。真実を求めた結果、針の穴を通すほど難しいのに気づきながら提唱したのではないかと思う。同時に、それに乗った権威主義者もいただろう。それが現実である。誰もが善と欲望の両面を持っているのだから、その2面性から自由になることはできない。

復活節を過ぎて2週目。暦から見れば、ペンテコステまで待っても良いのだろうが、すでに信仰告白した者は、いち早く目覚めようとしても良いだろう。制度を確立した勢力に従う必要はない。ただ、与党側は様々な挑戦に耐えて生き残ったものでもある。その事実に敬意を払わないのは適切ではない。

※画像はJames TissotのChrist Appears on the Shore of Lake Tiberias